外部卓話 財団法人中央義士会理事長 中島康夫様
「大石内蔵助のリーダーシップ」「女たちの忠臣蔵」「刃傷松之廊下」
2005年11月16日例会



プロフィール 昭和16年生まれ 64歳
講演テーマ 「大石内蔵助のリーダーシップ」「女たちの忠臣蔵」「刃傷松之 廊下」他
主な著書 「忠臣蔵の謎額」「元禄四十七士の光と影」「討ち入りを支えた八人の証言」
「忠臣蔵四十七士義士全名鑑」


元禄十四(1701)年の元旦は日蝕がありました。当時の人々は太陽が欠けていくと信じ、不吉なことが起こる前触れと恐れおののいておりました。
ほうぼうの寺院や神社では、正月早々から祈祷が盛んに行われました。そんな年の二月に、幕府は浅野内匠頭長矩に勅使饗応役、伊予吉田領主で宇和島藩分家の伊達左京亮宗春に院使饗応役を命じました。饗応役に選ばれた大名は、自分のお金で総てを賄わなければなりません。そのうえ、礼儀作法を正しく行わなければなりません。
公家社会は、武家社会と違って細かい作法がいろいろありました。そのため、幕府では、
礼儀作法にくわしい公家衆という人々を置いており、その筆頭が吉良上野介義央という人でした。
十七年前にかかった費用は四百五十両、昨年は千二百両かかったということで、
十七年前と昨年の間をとって七百両ぐらいでよかろうということにしました。
ところが月番指南役の上野介はそれには不満でした。
朝廷と幕府の橋渡しをしている関係上、勅使・院使をできるだけ手厚くもてなし、自分にも多くの賄賂をして貰いたかったのです。ところが内匠頭は曲がった事がきらいでしたので、なかなか頭をさげません。そのため上野介は内匠頭に対して、いろいろ意地悪をするようになりました。

三月十一日に勅使方が江戸に入られ、十二日、十三日と催しが予定どおり進んでいきました。ところが三月十四日、殿中で刃傷事件が起きてしまったのです。
この日は、将軍が殿中の白書院において勅使・院使と対面する予定でした。饗応役の浅野、伊達らは勅使方を迎えるため白書院近くの松之廊下に正座しておりました。

 そこへ将軍の母上のお使いで梶川與惣兵衛が上野介を探しに松之廊下へやってきました。二人が言葉を交わし始めると、上野介は一回転して公家衆に向かい、内匠頭の悪口を言い始めました。「田舎者にたのんでも、勅使方にご迷惑をかけることになるよ」など、傍らに座っている内匠頭や、居合わせた公家衆にも聞こえるように言い放ったのです。それを聞いた内匠頭は顔色を変え立ち上がり「上野介!この間の遺恨覚えたか!」と叫んで小さな刀を抜き上野介の顔に切りつけました。上野介の烏帽子の縁に当たったため傷は浅く、上野介は逃げようとして後ろ向きになったところを、こんどは背中を斬られました。
おどろいた梶川與惣兵衛は浅野内匠頭をうしろから抱きかかえ畳に押さえつけてしまいました。内匠頭は、「もう一太刀」「もう一太刀」と梶川與惣兵衛にお願いしましたが、與惣兵衛は放そうとしませんでした。内匠頭は無念な思いで一杯でした。しかし目の前に憎むべき相手がいなくなり、諦めざるを得ませんでした。だんだん気持ちは冷静になりましたが、吉良上野介を討ちもらした無念さだけが残りました。
松之廊下での刃傷を柳沢出羽守保明より報告を受けた将軍綱吉は激怒し、内匠頭を奥羽一ノ関の藩主田村右京大夫建顕に預け、さらに切腹を申し付けました。そして赤穂浅野家を断絶させたのです。封建時代では「喧嘩両成敗」というのが定着していましたので、喧嘩した両者は理非を問わず罰せられるのが常識でした。しかしこの場合、斬られた上野介は何のお咎めもありませんでしたので、片落ちの判決でした。