瀬戸隆海会員 2011.4.6          Topに戻る
 
 京都の話~「東日本大震災の日」
 先日、会議がありまして京都に行ってきました。途中、新幹線の中で、会議の場所に行くのにバスにしようか、地下鉄にしようか、それとも、タクシーで行こうか、いろいろ考えてみましたけど、一番手っ取り早いのはタクシーです。

 でも、この時期、春休みということもあり、まあ震災の後でも関西はそれほど影響もないだろうけど、道路は混んでいるかもしれないし、まあ、一番無難なのは地下鉄かなと。

 駅に降りて、地下鉄に乗る前にバスターミナルの前に行きました。ところが、バスターミナルにある洛バスの乗り場には、ほとんど人が並んでいませんでした。

 この時期だったら、もう観光実で何十人どころか、普通は2、3台待たないと乗れないのに、たまたまいた洛バスの銀閣寺行きにすぐに乗れました。それも、バスの座席に座れました。

 話は逸れますが、洛バスというのは、御存じの方もいるかと思いますが、京都市内の観光名所を回る急行バスの事で、三つのコースがあります。三十三間から清水寺、祇園、平安神宮、銀閣寺に行くコース、二条城、北野天満宮、金閣寺、北大路バスターミナルに行くコース、そして、北大路バスターミナルから大徳寺、金閣寺、今出川通りを通って百万遍、銀閣寺と回るコースと三本出ています。

 いずれも市バスですので、乗り放題のチケットを買えば、一日500円で回れますので、大変人気があるバスです。

 ということで、会議も終わって知り合いの方々から地震のお見舞いのお電話をいただきましたので、お礼かたがた行ってきました。その店の御主人と色々と御話をしていて、だいぶ京都も観光実が減ったみたいで大変ですねと、話したところ、人出は今一なんですけど、ホテルや旅館などは、当然団体とか個人実とかのキャンセルが相次いであったそうですが、そのかわり、地震で被災された方たちが長期滞在ということで満审ということなんです、との話でした。親戚の伝手の関係とか、京都市が被災者の救援とかで受け入れているそうなんです。

 こんな遠くまで、支援の輪が広がっているのだなあと驚きました。

 そういえば、被災者の受け入れについては、ほとんど全国的に表明しているとニュースでは見ましたけど、实際こんなに来ているとはと思いました。

 さて、これからが話の本台なのですが、实は震災の時、自分は青森から東京に帰る新幹線に乗っているときに遭遇いたしました。青森で、研修会がありまして、その講師の一人として7名のメンバーで3月7日から滞在していました。

 研修会がお昼過ぎに終わって、会場から新青森の駅に向かう途中、自分は夕方から増上寺で4月1日から行われる法要のリハーサルがあったので、他の講師たちよりも一列車はやい1時42分発の「はやて」を予約しました。

 ホームに着いたら、ちょうど新しくはしりだした新型車両の東京からの「はやぶさ3号」到着した後で、携帯のカメラに収め、間もなく予約した「はやて」に乗り込み東京にむけて発車しました。自分の席は10号車の最後尾、つまり後ろにドアがあって、その向こうは運転台件車掌审。

 盛岡で秋田からの「こまち」と連結をし、東京に向けて爆走している最中に、停電になりすぐにブレーキがかかり停車しました。停車場所は、新花巻駅の手前10キロ地点だそうです。間もなくして、地震の揺れが感じました。思うほどの激しい揺れではありませんでしたが、結構長い時間揺れていたのを覚えています。

 昨日のニュースで、新幹線の地震対策ということで放送しておりましたが、東北新幹線には東京から青森に行く間に60近くの地震計と、太平洋沿岸に10か所の地震計が備え付けてあって、ある程度の揺れを感じた時に、自動的に停電してすべての新幹線が停止する仕組みになっているそうです。

 ちょうど大地震の時、東北新幹線上には24本の列車が走っていたそうですが、すべて緊急停止したので、脱線を免れたのだそうです。

 さて、車内アナウンスで、地震の為の停車で点検の後発車しますというアナウンスでした。しかし、後ろの運転审からは警報音と運転指令所からの緊迫した指示連絡の声が聞こえてきます。たびたび、地震が続きますが、安全に支障がありませんので落ち着いて着席してくださいとのアナウンスがありました。

 一時間しても動く様子もないし、このままだと増上寺にも時間に遅れると思ったので、携帯をかけたのですが、御話し中の信号音なので、とりあえずメールを入れました。しばらくして、「東京も大変なことになっていて、稽古は中止します」との返事。

 一体どうなっているのだろうと思い、持っていたipadでインターネットに接続したところ、もうすごい画像がどんどん表示されました。もちろん、仙台駅がすごいことになっているところとか、津波の様子とか、ディズニーランドの事とか・・・・。

 もう、日本中がパニックになっている。意外と冷静というよりはあきらめなのか、穏やかに時間を過ごしているのは我々の乗っている新幹線の中なのかなと。この分では、しばらく家には帰れそうにもないし、翌日の法事の事とか葬儀の事とか・・・・。

 すぐに家に今日中には帰れそうにもないからとメールを送り、これは長期戦になると思い、携帯の電源を切りました。

 当然、停電ですから、車内の電気も暖房も止まっています。かろうじて、非常用の電源はありましたので、尐しの間はトイレは使えました。外は、深々と雪が降っています。車内のアナウンスにより、車内の温度保持のため、カーテンを閉めるように指示が出ました。

 そのうち、暗くなると同時に、非常用の電源の維持のために、非常用のライトも消され、すっかり車内は暗くなりました。当然、車内アナウンスも使えなくなりましたので、車掌が一両一両回って、状況説明をしていました。

 たまたま新幹線に乗り合わせていたJR職員と車掌が、各車両のトイレ付近にいて、持っている懐中電灯で照らしてくれましたが、トイレの水は流れません。

 乗り合わせていた乗実の女性が立ち上がって、「みなさん、こういう狭い所にじっとしているとエコノミー症候群になってしまうので、できれば30分に一度立ち上がって歩くことを薦めます。」と叫んだ。

 とても勇気ある行動だけど、こんな真っ暗の中で歩くのは、いささか危険を伴うのではと思っているうちに、その叫んだ女性が歩いたら華躓いて転んでしまいました。明らかに、身を以って証明してくれました。

 自分は、新幹線に乗る前にペットボトルの飲み物を2本持っていたので何とも思いませんでしたが、時間がたつにつれて、のどが渇いた人が出始めた人もいました。そうはいっても、冷え込みはだんだんと厳しくなり、当然食べ物もありませんでしたので、寒さが身にしみてきました。

 列車が止まって8時間ほど過ぎた頃でしょうか、車掌をはじめJRの職員が、私のうしろの運転审前に集まってきました。そして、非常用のはしごも運んできました。何か動きがあるのかなと。間もなく、反対方向の線路に、救援車両が到着したみたいでした。

 その車両から、救援物資が届いた様子です。積み込み作業が終わって、救援車両のライトが見えなくなりました。車掌初めJR関係者は、救援物資を各車両に運び出しました。配られたのは、使い捨てカイロ一つ、ペットボトルのお茶一本、そして毛布一枚でした。それでも、冷え込んだ身体にとっては何よりの御馳走でした。

 毛布にくるまって、一夜を明かしましたが、とても寒くて寝られる状態ではありませんでした。
やっと夜があけ、尐し太陽が出てきました。それでも、周辺はただ新幹線が動かないだけで、なんら地震の被害がひどいとは感じさせない光景でした。

 夜が明けると同時に、ヘリコプターの音がけたたましく聞こえてきました。たぶん、自衛隊のヘリコプターなんでしょう。

 トイレに行くとJRの係員が、トイレの中に簡易トイレが設置されていますので、用を足した後は簡易トイレの袋を、設置してある大きな袋に入れてくださいとの説明がありました。

 席に戻ってしばらくすると、車掌初めJR関係者が集まってきました。どうも、今後の乗実の避難誘導の方法の打ち合わせのようでした。

 各車両ごとに乗実を避難はしごを使って新幹線からおろし、軌道をしばらく歩いて、保安用の出入り口へ誘導され、そこからバスに乗って盛岡の避難所に誘導するということでした。

 我々が新幹線から脱出したのは、停車後18時間経ってのことでした。バスに乗って盛岡に向かう途中、バスの中では地震の様子のニュースと、地元放送局ということで、卒業式延期の旨の学校からの指示連絡や、ガソリンスタンド情報、避難物資配布情報等、地震情報ばかりでした。

 停電ということもあって、御店も開いていないのは当然ながら、信号機も消えたまま。でも、事故もなく、粛々と車は流れていました。盛岡あたりは、建物の被害は見渡りませんでした。

 盛岡駅前の県の施設の避難所に案内され、やはり毛布一枚とペットボトルが配られました。どこか部屋に案内されるのかと思いきや、ロビーや廊下で直に座ってくれとのこと。

 もちろん、停電していますので、建物の中は薄暗く、暖房もなく、もちろんトイレも流れていませんでしたので、臭いもしていました。

 携帯の電源を入れると、メールや留守電が数多く入っていました。でも、携帯の電池の残量も乏しく、返信するのでさえままなりませんでした。

 ところで、この避難所で多くのボランティアを見かけました。ボーイスカウトのメンバーや、青年会議所や商工会議所青年部とか、本当に若い人たちが、この混乱の中いろいろと避難してくる人の世話をしているのには、感謝いたしました。

 新幹線開通までしばらくお待ちください、というアナウンスはあったけど、この状態では新幹線は当分の間は開通する見込みもないし、高速道路も使えないし、レンタカーがあるわけでもないし、このままでは、東京には帰れないと思い、あとの交通手段と言えば、考えられるのは、飛行機だけ。

 近くの飛行場は三沢か青森か、秋田か。三沢なら、米軍と自衛隊と共有だから、なんとか飛んでるだろうと思い、三沢に戻る決心をしました。でも、そこまでの交通手段はと考えていたところ、たまたま、八戸に行く人いませんかと、タクシーの相乗り募集をしていたので、一緒に八戸に行くことにしました。

 盛岡から八戸までは、約100キロの道のり。タクシー代で32000円ほどでした。信号もついていないので、むやみに飛ばせるわけでもないし、あちこちのガソリンスタンドでは、給油待ち渋滞。どうにかこうにか八戸に着き、駅の構内でタクシーから降りて、別のタクシーで三沢空港に行きました。

 ところが、いつもは海岸方向に走って三沢空港に行くんですけど、今回はずいぶんと海とは反対方向に走っていくので、タクシー料金を吹っかけられているのかなと思いましたが、そこは聞き出すこともできず、三沢空港にとりあえずは到着し、キャンセル待ちで東京に戻ってきました。
ところで、今回この地震を体験して、思ったことがいくつかありました。

 それは、ボランティアの人たちの対応が早いこと、そして、行政とくに政府の対応の遅さを感じたことはありませんでした。以前、映画のセリフに「事件は机の上で起こっているのではなく、現場でおこっているのだ」とあるように、中央だけで一方的にマスコミ対応に追われているように伺えます。

 だから、現場の人間に知らされる前にマスコミ発表をしてしまうという後手後手の混乱。そして、民間には節電と言っておきながら、中央はこうこうと電気をつけて、ワイシャツを腕まくりするくらいの暖房。

 それから、被災者にとって今一番しなくてはならないこと、そしてこれからしなくてはならないこと、そして、日本経済にとって影響を最小限に抑えることの手段、これが民間より対応が遅れているように思えます。

 先日のテレビの中で、いま被災者とって必要なのは笑顔だと言っていました。この大変な状況の中で、笑顔になり前向きになりと言われてもなかなかできるものではないと思います。

 自分も、16年前の阪神淡路大震災のときに2度ばかりボランティアに行きました。最初のときは、とてもありがたく救援物資をもらっていた人たちも、二度目の時は、他に何か物はないのかと言われてしまいました。

 救援慣れしてしまったのです。救援されて当り前、何もしなくてもやってもらえるという心の病気。先日のテレビで、不活発性症候群ということを言っていました。

 自分から行動を起こそうとしなくなってしまう心の病気です。そうならないためにも、被災した人もそうでない人も、できることから行動を起こそうという運動をしなくてはならないのでしょうか。

 昨日のニュースで、被災していない東北の製品を買って下さいということがありました。そういう事をしてあげるのも経済活性化の一助のなるとも思います。

 ぜひとも、いろいろ考えながら節制するだけではなく、どうしたら日本の経済を活性化することを考えながら行動を起こすことを期待してやみません。

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