松坂興一会員卓話1999年3月3日
 
職業分類:病院管理
(医)仁愛会
水海道厚生病院 会長
 「日本のロータリー発生から」

 先日2年未満の会員の方々に、R情報ということでお話をしました。時間が限られており、中々、意を尽くしたお話しが出来ない面もあり、また、大雑把にロータリーの歴史とか、或いは四大奉仕部門についてお話を申し上げたわけで、残ってしまった部分もあります。

 そのときの原稿が若干残っていますので、その分を針小棒大にしてお話したら30分の時間も持つのではないかと思います。

 しかし、おそらく緒先輩の方、また、ロータリーに精通されている方々には面白くない話だろうと思われますので、少しお話をさせてもらった後、残りは雑談をさせていただきます。

 この前の話ですと、確か日本のロータリーの発生についての部分は概ね飛ばしてしまったような気がします。当時(1910年)三井物産の子会社であった東洋綿花のダラス支店長であった福島喜之次という方が、向こう(アメリカ・ダラスロータリークラブ)でロータリアンになられておりました。

 これが1920年に転勤で日本に帰ってくることになりました。その時、RIから「日本にロータリークラブを作るように・・・」という要請を受け、帰国しました。

 ところが、本社に戻ると福島さんは一課長の身分でした。勿論、大会社の課長ですから大変な役職ではあったのでしょうが、それでもロータリーを作ることに一課長がどれだけの力を出せるかというと大変だったことは想像できます。

 一生懸命やったのですが思うように行かない、そこで、当時、三井銀行の常務をされていた米山梅吉さんにお会いすることになります。

 当時は三井合名というのがあり、自分の参加約二百数十社の大企業を統括していて、その企業のトップは、ほぼ常務が占め、最高の意思決定は特殊会社で行なわれていたようです。

 従いまして米山さんは、今で言うなら社長或いは頭取クラスといっても良いのかもしれません。

 偶々、この米山さんがアメリカに行った時に福島さんと面接があったそうです。そこで「ひとつやってみようか」と、なり東京における各界のトップクラス(日本のトップといって良い)を集め、24名を以って1920年10月24日に創立総会を開きました。

 その翌年1921年4月1日に認証番号855号、即ち世界で第855番目のクラブとして東京ロータリークラブのチャーターナイトをやったということであります。

 因みに、このときの式典はすべて英語で行なわれたとのことです。尚、1922年ロスアンゼルス国際大会で世界統一の定款・細則が決められたのですが、東京クラブはそれ以前に創立されたということで独自の定款・細則が認めてもらっている特定クラブになっています。

 その1年後に大阪クラブが出来ていますが、大阪クラブは統一の定款・細則クラブの日本第1号になったという話です。

 1923年(大正12年)9月1日に、ご存知の関東大震災がありました。そしたら早速2加護にRIから25,000ドルの見舞金、その後、まもなく全世界のロータリアンから89,000ドルの復興資金が届いてきたそうです。

 その時、米山さんを始めとする東京クラブの方々は大変、驚いたそうです。友好クラブというか親睦団体というか、偶々集まって、昼飯を食うくらいの意識しか持っていないというのに、国際ロータリーとは何という組織だろう、RIの組織力とその広がりに、目から鱗の落ちる思いがしたということです。

 そして、これから組織というものをしっかり引き締めて自分達もやっていかなければならないと心を新たにしたとのことです。

 昭和15年(1940年)になって、ロータリーを維持することは当時の世相から難しく、東京ロータリークラブが最後に9月7日をもって解散。日本からロータリークラブが姿を消しました。

 昭和20年(1945年)終戦となりますが、国際ロータリーへ直ぐ復帰することは出来ませんでした。幸い、昭和24年頃に日本に対し大変、理解の深い方がRI会長となられ、その人たちのご尽力で復帰が認められることになりました。認められたクラブは、東京・札幌・大阪・福岡・神戸・京都の6クラブでした。

 以来、今日、ロータリークラブは大変な盛会を見るわけですが、その間には様々な紆余曲折があったようです。そのひとつ、手続要覧は現在、難解な文章になっています。これは戦前に日本が曲解したとのことで、翻訳の際、意訳は一切認めないということから来ているのです。

 最後に、最近の傾向をみましてロータリークラブが恰も、寄付団体かのごとき様相を呈していることや、RIの意向ひとつで大切なクラブの独自性が失いつつある傾向にあるのではないかと、私自身、個人的に懸念しているところです。