松坂興一会員 2015.1.21 Topに戻る | |
15年前を振り返って(ガバナー選出とガバナー事務所の立ち上げ) | |
此のたび、古矢プログラム委員長さんより張貝ガバナー補佐がIM開催のPRにお見えになるとのことで、その際北村ガバナー誕生の経緯とガバナー事務所の立ち上げについて、当時の思い出話をして欲しいとのご下命で此の場にたった次第であります。 然しながら、年寄りの思い出話ほど詰まらない物はなく、聴く側からすると退屈このうえもなく、迷惑千万なことと存じますが、これも任務ございますので、しばしの間ご辛抱頂きたいと存じます。北村さんのガバナー就任は2001~2002年度でありまして、前年のノミニー年度からとなりますと15年前になる訳でありますが、当時の水海道RCと致しましては、創立39年目にして始めてのガバナー輩出と云うことで、クラブとしては機運が熟しておりました。 正式に地区指名委員会より選出依頼がありましたのは、1997~1998年度西村ガバナー年度で、丁度私が会長年度の時でありました。 早速選出の為の特別委員会を設けまして、慎重かつ厳正な検討の結果北村会員に白羽の矢がたったわけでありました。 ロータリアンとしてのキャリアーも、会長はもとより分区代理も務め、温厚篤実な人柄と相まって見識に優れ、まさに打って付けの人物と、満場一致で推挙することになりました。 然しながら残念なことに、北村さんに受けがたい事情がありまして、断念するに至ったのでありました。 従いまして、本来なら1999~2000年度が北村年度であった訳であります。そして二年後再度の要請を受け、ご本人の事情も解消され受託致したわけであります。 こうした事情からもお分かりのように、ご本人の了解は当然ながら、それ以前の問題として、輩出クラブでの総意が先ず第一であると云うことあります。なぜならばガバナーの職務は想像を絶するものがあり、数人で行うことの出来るような仕事ではありません。クラブが一体となり、メンバー全員でフォローして初めて、真っ当な職務を遂行できるのであります。ガバナーの輩出と云うことは、クラブ内での意志の統一と強固な決意が求められる訳であります。 ガバナー事務所の運営に資金的な問題も確かに有ろうかとも思いますが、私の経験から申せば、解決出来ない問題ではなく、ガバナー年度の最終決算において解決できる筈であります。 それでも決定的な資金不足と言う事であるならば、それは最早、個人や輩出クラブの問題ではなく、地区全体として対応セネバならない問題と言う事でしょう。 話があらぬ方に向かってしまいましたが、ガバナーを輩出すると言うことはそのくらい大変なことだと云うことであります。又同時にクラブの責任は重大であると言うことであります。 さてガバナー事務所の立ち上げは、年度の1年前から始まる訳ですが、取りあえずガバナーノミニーと地区幹事は言うならば見習いとして、前年度のガバナー、地区幹事と行動を共にする訳であります。その時にガバナー事務所としてのあり方、方針等、つぶさに観察かつ記憶にとどめて置く必要があり、このあたりで手抜きをしてしまうと、運営がスムースに行かなくなるのであります。 当時私は、吉岡ガバナー年度の分区代理を務めており、地区幹事との“二足の草鞋”を履くことになり、多忙を極め大変な思いを致しました。 最初に手をつけたのが、スタッフの選定でありました ガバナーと相談、熟慮の結果、若手の会員を中心に構成すべきとの認識で一致し、島田会員を筆頭に松村、青木(清)、青木(正)、秋田、熊谷、武藤会員に副幹事をお願いし、ガバナー月信の編集委員会を発足させ、委員長に青木全弘会員、委員に瀬戸、大塚、皆葉(伯)、増田、石塚(克)委員にお願い致しました。 当然のごとく、専従の職員が必要であり、杉本さん、和久さんのお二人に参加して頂き形が整ったわけであります。 スタートにあたり一番苦労したのは、地区役員・委員の選出でありました。地区内すべてのクラブから選ぶのが建前ですから、まず各クラブ宛推薦依頼をお願いする訳であります。然しそれだけで成り立つ訳もなく、1本釣りでお願いすることもあり、ガバナー共々苦労した訳であります。結果として当クラブから十名の委員を出すことで解決致しましたが通例では六、七名であります。此のことが後に良い経験となり、ロータリアンとしての資質を大いに高める事に繋がったと思っております。 そしてノミニーの、RI協議会への出発準備と手続に始まり、PETS、地区協、指導者の為の研修会等々次から次へと膨大な仕事量で圧倒されるばかりでした。 然しながら、驚いている余裕などなく、スタッフ共々大袈裟な言い方をすれば、連日連夜を問はず、ひたすら業務を消化してゆく毎日でした。 北村年度において、地区では様々な問題を抱えておりました。 先ず地区リーダーシッププランの導入であります。これはそれまで行われてきた地区における分区代理の業務を改善・拡大してガバナーの負担を軽減して地区の活性化を図ろうとする試みであります。 このプランは数年前からのRIでの決定事項で此の年度がタイムリミットに成っておりました。制度設定には大変苦労いたしました。また従前行われていた年度末での地区大会をRI会長の要請に則り、年度前半の公式訪問の最中の十一月に行なう事にしたことです。 地区大会において、RI会長の掲げるテーマの実践と推進を決議する訳ですが、年度末に開催、決議をしても一、二ヶ月もすれば年度も終わってしまいます。これでは何の意味もありません。そこで十一月に行なったわけですが、大変な苦労でしたが、これこそクラブが一丸となっての一大イベントであり、成し遂げた後の達成感は何者にも変えがたい満足感がありました。 その他これまたRIからの要請で地区にIT委員会を立ち上げるなど、未知への挑戦でありました。 また255地区から2550地区と2820地区に分割されて10年目にあたり、地区諮問委員同士の交流会の最後の年で、その懇親会場の設定・準備等何もかも初めての事ばかりで、何事も勉強の毎日でした。それでも大過なくやって来られた事は、素晴らしいスタッフに恵まれたこと、そしてそれを支えるクラブの熱意が在ればこそだと思っております。今日においても、つい昨日のごとく思い出され、感慨深いものがあります。 前に述べたスタッフの他にも、クラブ会長の小島会員、幹事の山田会員、田上会員、斎藤会員、染谷正美会員、染谷秀雄会員など正にクラブ一丸となっての日日でありました。 お名前を挙げた方々は、いずれも後にクラブの会長・幹事を歴任し当クラブのリーダー的役割を担う人達であります。 近いうちに、二人目のガバナーが選出されるかも知れませんが、その日が来るのを楽しみにしております。 ただ残念なことは、会計長と言う重責を務められた鈴木豊会員が病に冒され薬石の効もなく亡くなられた事であります。日ごろの彼の優しい笑顔が思い出され、今はただご冥福をいのるばかりであります。 また地区年鑑を見ておりまして、その当時の地区の趨勢を見て見ますと、現在とは大変な隔たりが有るのに驚かされます。 北村年度は会員数が期首2554名期末2483名でありました。 その前年の吉岡年度では2664名、2658名。吉沢年度は2780の2765名。塙年度は2855の2856名。西村年度は2897名の2929名で西村年度から五年間で375名減少しており、このころからロータリーの衰退の傾向が始まった様に思われます。 その後の状況を見て見ますと、片岡年度2453・2387、清水年度2370・2391、永井年度2377・2359、萩原年度2344・2358、佐藤年度2346・2314、井上年度2284・2242、廣瀬年度2217・2178、内藤年度2147・2115、山崎年度2094・2066、大木年度2022・2005名となり、西村年度~大木年度までの二十年間で907名の減と言う事で50名のクラブが18以上消滅したことになります。 そして現在なお歯止めが掛からない状況です。RIが求めているものは、一体何なのでしょうか。改革の名を借りた様々な規制緩和はロータリーの原点から遠く離れて行っている様に思えてなりません。 会員の増強を目指しながら、減少につながって行く現状を見るにつけ、寂しい思いに駆られるのは、私だけでしょうか。 最後は年寄りらしく、湿っぽい話になってしまいましたが、以上もちまして思い出話とさせて頂きます。ご清聴有難うございました。 |
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