熊谷昇会員卓話:2000年11月22日
職業分類:ビジネスホテル
水海道第一ホテル
支配人

 「徳川幕府の話」

 NHKの大河ドラマ「葵三代」で江戸幕府の親子三代にわたる流れが放映されています。江戸時代のものは、とにかくドラマ化され易く、テレビで取り上げられる回数も多いかと思っております。

 私の好きな時代劇の中に「鬼平犯科帳」があり、これは時代劇の中でもなかなか良い作品と思っています。その中で吉右衛門さんが扮する盗賊改め方長官というのは、どの辺りの役職かなと思い調べてみました。そうしてみると、案外江戸幕府について分からないことが多く、歴代将軍の名前だけ拾ってみても、すごい歴史であると、思うようになりました。そんなわけで今日は徳川幕府のことについてお話をさせていただきます。

 <歴代将軍について>

 お手元の資料のように、初代家康公から第15代将軍慶喜公に至る将軍名・花押・法名・霊廟・在職の年数等、表にしてみました。

 家康公はご存知のように東照大権現として日光東照宮に祭られています。この大権現については秀吉公が大明神であることに対し、大権現と称された事はテレビのドラマの中にも出ていたかと思います。

 最後の将軍となった慶喜公は谷中の墓地に埋葬されていますが、東照宮と芝増上寺・そして上野寛永寺が代々徳川家の菩提樹となっております。これは徳川幕府260年の歴史を端的に現すものとして、お分かりいただけるかと思います。

 <なぜ徳川幕府が長く続いたのか>

 奥州藤原家の平泉時代が約100年の政権、鎌倉幕府の時代で約150年、足利室町でも約150年、信長・秀吉の安土桃山時代は約30年と、それに比べると徳川の江戸幕府は260年という長い間、政権をとっていたことは、大変異例と言うか、凄い時代だったことが言えるかと思います。

 では、何がこの長い時代を支えていたのか。その一つは血脈を重んじ、その中での政権委譲がなされたからだと思われます。即ち、能よりは血(血脈)が大切だ、血脈があれば政権のトップとして安定を図ることができると言った、家督争いが起きないための哲学が貫徹されたのだと思うわけです。

 これが幕藩体制の基本的な性格でありまして、全国津々浦々の大名家もこれに習い、血の濃さをもって家督を守ってきたということが言われております。

 15代に至る間には、たまたま血脈が切れるときもあり、その時々にお家騒動的なことが起きてはおります。よく言われるのは第4代家綱公の時代で、家綱は確か10歳で就任し20歳頃で亡くなり、子供が居ない為、弟の綱吉公に政権が移ったと言われます。こんなときは幕閣といわれる大老・老中と言った役職の方が実質政権を担うようになっています。

 その後、第7代家継公も4歳で継ぎ、8歳で亡くなっていますが、この場合も家督争いがあり、紀伊家の吉宗公が後を継ぐことで決着を見ています。※吉宗公以後、将軍職は紀伊家(一橋家を含め)
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同様に、家治公(10代)家茂公(14代)も子供がなく、徳川家の血脈から将軍を迎えることで江戸幕府を維持してきたのです。これは当時の時代の流れもあり、血の流れの濃さより、どちらかと言えば人物の面から将軍が選ばれるようになったというべきで、血脈から始まって英明さをもって最終的には終わったと言われております。いずれにせよ、260年という長きに至った徳川幕府の歴史は凄いものだと感じざるを得ません。
 <江戸幕府初期の政治>

 家康公が1603年に幕府を開き、1807年に慶喜公が大政奉還するまでの間、15人の将軍と36回の元号が変わっています。その江戸幕府の基礎は初代から三代目までに築かれたと思われます。テレビ等で葵三代目と注目されているのもそのためです。

 家康自体は2年間しか将軍の座におらず、ずっと大御所として院政をひいておりました。二代秀忠にしても早く家光に世代を譲っており、従って家光の時代に幕藩体制は固まったと言われております。即ち、武家諸法度と言われる武士のあり方を制定した中に参勤交代制度が強制され、諸大名にとっては財源を奪われ、なかなか財産を作るわけに行かず、これにより幕府としては諸藩の統制が出来た形になります。

○身分の分布
 江戸時代の武士は全人口の6〜7%、殆どは農民で85%ぐらい、残り商工の人は10%以下で、厳格な身分制度の中で幕藩体制が作られていたと言われます。

○幕府の領地
 領地全体で2643石あり、幕府直轄領、旗本領、大名領、寺社領などに分かれ、それぞれパーセンテージで割合が決まっていたそうです。

○幕府の要職
 いわゆる幕閣といわれる大老・老中・若年寄(時には側用人も)といったもの、また寺社奉行・町奉行・勘定奉行・大目付・目付けと言った役職があり、それぞれ、役につける格付けがあったようです。
 将軍が政務をあたるケースもありますが、将軍が幼いとか、余り政治に関心がない将軍もおられたわけで、そんなときは大老や老中がこれに当たり、中に例外として側用人といわれる将軍の用事を取り持つ者が時の権力者の中心になっていた例もあるようです。

○藩と大名
 大名の数は260ほどあったそうです。領地(国)の変わらない大名と国の変わる大名もいました。江戸領内におけるルールもあり、通りすがりに頭を下げるのは誰とか、どこの間にしか入れないとか、厳格なお家柄の格式によって決まっていたとの事です。

 以上、勉強不足で言葉足りませんが江戸幕府のお話をさせていただきました。少しずつ歴史の勉強をしてまた、お話できればと思っています。