海老原良夫会員卓話:1997.4.23
 
職業分類:印章販売
(有)平安堂 代表取締役
 「水海道高瀬舟物語」

 プログラム委員会の方から卓話のチャンスを与えて頂きましたので「水海道高瀬舟物語」という紙芝居のお話をしたいと思います。尚セッティングの時間が少々かかりますので、その間、市民の皆様から公募して作成した「水海道甚句」のテープを流します。

 甚句は「水にゆかりの水海道」「水海道高瀬の舟唄」「水海道の名所と旧跡」の3曲があります。これは市民の皆さんからいただいた詩に私どもの会の方で曲をつけたものです。準備の間それをお聞きください。

 それでは例会場の場で紙芝居を上映できますことを本当にありがたく思っています。日頃は子供を対象に出前巡業をして歩いています。時間は大体30分間、今日は更に短く25分位ですが子供たちの前では、中々語れない部分をボリュームアップしてお話をしてみたいと思います。

 紙芝居は6幕から出来ていますが、この紙芝居巡業の元々のねらいは、3年前「水海道名物を考える会」を発足した際、町のお年寄りから色々と聞き取りをしました。その中で、水海道おこしの秘策の筆頭に高瀬舟が浮かび上がり、それを紙芝居化した訳です。

 昨年11月オータムフェスティバルで第1回公演を行ない、その後、市内の小学校、ボーイスカウトなどからお呼びがかかって出前をして歩いています。

では、第一幕から
《第一幕 風待ち(水海道高瀬舟)》

 水海道のかつての商人達が高瀬舟に当時の水海道名物を満載して、水海道河岸から鬼怒川を下って利根川へ出て、関宿まで遡航して江戸川へ、そして江戸の両国や蔵前に高瀬舟をつけたとのことです。

 そして水海道の商人達は、単に物資の交流のみならず、多くの文人墨客を水海道に招いて自由で文化の薫り高い水海道文化を築いていったそうです。
当時水海道は常陸下総の中で、水戸と並び称されるほどの商業都市として栄えていたとのことであります。

《第二幕 河岸の風景》
 これは明治20年代に描かれた3つのシーンの銅版画(醤油醸造・酒屋・坂野家の3つ)の一つで、五木総の醤油醸造を示したものです。レンガ造りの家、鬼怒川にかかる木橋の豊水橋、そして高瀬舟の白帆も見えます。

 水海道河岸は、今の豊水橋から下流500〜600mにわたって栄えたとのことです。何故鬼怒川の中で水海道河岸が栄えたかということですが、それは水海道の商人達が天の時・地の利・人の和の3つの要素から鬼怒川を要衛の地として発展させたことが要因としてあげられるといわれています。

《第三幕 商人の心得》
 水海道の商人達は、文人墨客を招いて文化の薫り高い水海道の町を作ったことは、先に述べました。そのキーワードともなる人の一人に鈴木頂行なる人物があげられます。
この人は「不二道」という思想を広めた大変な学者だったそうです。

 彼の教えは、今で言うボランティアとか商人の教え、農家の教えとか、いわば人の生きる道を説いたとのことです。その根底には「考」(親孝行)をベースにおいたそうです。二宮尊徳(伊左衛門新田の開墾を指導)も彼の教えを受けた一人といわれます。

 彼の教えは遠く京都の朝廷をも動かし、光格上皇に拝謁を許されるにいたり、文政8年再度、京に上る途中、遠州見付宿で病没されています。享年47歳。

《第四話 寺子屋の子どもたち》
 鈴木頂行の思想を受け継いだ文化人達は、やがて学校教育にも目を向けるようになります。天保4年、つくば出身の塚田万兵衛なる人が水海道村宝洞宿に寺子屋「遊雲堂」を開きます。

 この時代、日本にはたくさんの寺子屋があったわけですが、その中で「遊雲堂」には他にはない特殊性が見られます。それは女子が学んでいることです。女子を何故学ばせたか。成人して商家に嫁がせた時に読み・書き・ソロバン位出来なくては嫁として困ると言うことで通わせたということです。

 これは水海道の寺子屋運動の全国に誇る独自性の一つであろうと思います。

以下、《第五幕 文明開化と洋風校舎》、《第六幕 英国紳士と水海道旦那衆》
の説明がありましたが、週報では紙面の都合上、卓話者に陳謝を込めて、未掲載になっておりました。(HP作成者)