外部卓話 ○「青い目の人形」について 松本ゆり子様          
○答礼人形「筑波かすみ」(ミス茨城)の里帰りを実現について 北村栄子様
 青い目の人形は、1927(昭和2)年にアメリカの子どもたちから日本の子どもたちへ贈られてきた「友情人形」のことです。

 贈られた当時は友情のあかしとして、大切にされてきましたが、戦争になると敵国の人形として、焼かれたり、壊されたりするなど悲しい運命をたどりました。 戦後、全国で残されていた人形が相次いで発見され、人形の存在が大きく取り上げられました。現在300体あまりの人形が各地の学校や幼稚園などで大切に保存されています。

 人形交流の始まり1924(大正13)年、不況により排日感情の高まっていたアメリカでは 日本人の移民を禁止する法律が出来るなど、日米の関係は悪化の一途をたどっていました。そんな中、以前日本に20 年程住んでいた宣教師のシドニー・ルイス・ギューリック氏は、悪化するアメリカと日本の関係を心配し、子どもの頃からお互いの国の文化を理解することが将来の両国の友好につながると考えました。そして、雛祭りにあわせて人形を贈る計画をアメリカ全土に呼びかけました。

 この呼びかけにアメリカの48 州、約260 万の人たちが協力して、12,739 体の人形を購入し、手縫いの洋服を着せ、手紙やパスポートなどを持たせて、3 月3 日の雛祭りに間に合うように日本へ送り出しました。
日本各地での歓迎会日本ではギューリック氏と以前から親交のあった日本実業界の指導者渋沢栄 一氏が人形の受け入れを引き受けました。そして文部省や外務省へ呼びかけて、人形を配る学校を決めたり、人形の受け入れの準備をしました。

 1927(昭和2)年1 月、第一便のサイベリア丸に乗った167 体の人形 が横浜港に着きました。2 月にも続いて横浜や神戸港に人形を乗せた船が次々とやってきました。3 月3 日には東京の日本青年館で、約12000 体の人形の歓迎会が盛大に行われました。

 その後、各都道府県の小学校や幼稚園などに送られ、人形を受け取った学校 でも盛大な歓迎会が行われました。歓迎会では「人形を迎える歌」を歌い、踊りや劇を披露しました。現在残されている歓迎会の写真を見ると、雛段に雛人形とともに飾られた人形の姿を見ることが出来ます。洋装の珍しかったこの時代に洋服を着て、目を閉じたり、「ママー」と声を出す人形は、子どもたちにとって大きな驚きでした。

日本からの返礼・答礼人形
 日本からも返礼として日本人形をアメリカの各州に贈ることになりました。人形の数は日本代表の他、各都道府県、六大都市、植民地で合計58 体製作され、その年のクリスマスに間に合うようにアメリカへ送られました。人形を受け取った学校から一人一銭の寄付が集められ、一体350 円程度の人形が作られました。当時、先生の1 ヶ月の給料が40 円だった頃のことで、大変贅沢な人形だったことがわかります。アメリカで大歓迎を受けた答礼人形は、アメリカ各地を回って展示された後、アメリカの各州に1 体ずつ贈られ、博物館や美術館などに保存されました。

戦時中の友情人形
 1941(昭和16)年太平洋戦争が始まり、日本とアメリカは敵国になってしまいました。英語は敵国語として使用を禁止されたり、「青い目の人形」「赤い靴」の歌も歌ってはならないとされました。

 アメリカから贈られた友情の人形も、「敵国の人形」「敵国のスパイ」として、燃やされたり、竹やりでつかれたりして壊され、その大部分が処分されてしまいました。しかし、そんな中でも「人形に罪はない」として、学校の裁縫室の戸棚の奥や倉庫などに密かに隠された 人形もありました。
答礼人形「筑波かすみ」(ミス茨城)の里帰りを実現させましょう
 答礼人形は、日本を代表する1体「倭日出子」のほか、各都道府県や6大都市及び日本の統治下にあった朝鮮・満州・台湾・樺太などを代表するように割り当てられ、それぞれ「筑波かすみ」(茨城県)、「東京子」(東京都)「北海花子」(北海道)などと郷土にちなんだ名前が付けられました。

 茨城代表の「筑波かすみ」が、今もウィンスコンシン州ミルウォーキー市の公立博物館に展示されている事がわかりました。日米親善に大きな役目を果たした「筑波かすみ」をゆかりの茨城に招いてその労をねぎらい、装いを整えなおして再び米国に帰し、友情と親善の象徴としての役目をいつまでも果たしてもらうために「筑波かすみ」の里帰りを実現させたいと願っています。